一生を通して

自分なりにかたっぱしからいろんな本を読んで、いろんなところに足を運んだりしてきた。

だが、未だに「救い」を得たわけではない。

その時々、そのつどそのつど、ちょっとした「救い」はあった気がするが、

完全な救いというのは、今もってさっぱりわからない。

まぁ、でも、金子大栄が言うように、「難信」というのは、信じ尽くせぬものであり、仄かなものだとするならば、まぁ、こんなのが当たり前なのかもしれない。

それを、一生を通して深めていくしかないのかもしれない。

滝沢克己が言うように、乾癬 治療信心というのは、根源的決定のおぼろな反響みたいなもので、あくまで原像からすればおぼろなものなのだろう。
他力の信心とは、根源的決定を知ったということなのだろう。

それだけは、いろんな曲がりくねった道をかいくぐって、すこしばかり知らされてきた気がする。
人が人として、現にここにあるという事実。

その事実が、無償の愛で与えられているということ。

そのことが、十八願であり、南無阿弥陀仏だと、
滝沢克己は説き明かしている。

そのとおりだと思う。